熊谷 主な年表

(熊谷歴史年表、他抜粋)





1702 元禄15 
 赤穂浪士討ち入り



1716 享保1  
 徳川吉宗、将軍となる



1750 寛延3  
 熊谷宿では、町内毎に行って来た祇園祭を町を挙げて、2日間に わたり行うようになった



1772 安永1  
 田沼意次、老中となる




1783 天明3 
 浅間山噴火、砂大雨の如く降る









1800 寛政12 
 熊谷宿937軒、3276人伊能忠敬、蝦夷地を測量










1823 文政6  
 松平忠堯、忍城主となる





1830 文政13 
 八坂祭の神輿出来る、重量300貫 戦災で焼失





1833 天保4  
 天保の大飢餓





1837 天保8  
 大塩平八郎の乱







1853 嘉永6  
 ペリー浦賀に来航






1854 安政元 
 熊谷寺炎上





1859 安政六 
 熊谷堤、久下堤決壊,、熊谷宿大水





1861 文久元 
 皇女和宮御降嫁のため中山道を下る竹井邸に御宿泊




1868 慶応4 
 東海道総督兼鎮撫使、岩倉具定公以下官軍熊谷宿に到着



1869 明治2
 忍藩知藩事松平忠敬となる。
 熊谷宿の町名変わる



1871 明治4 
 熊谷は忍県に編入される




1873 明治6 
 熊谷県となる、県庁を熊谷寺に置く
 熊谷裁判所設置




1876 明治9  
 熊谷県を廃し、埼玉県となる




1883 明治16 
 上野熊谷間に鉄道できる



1886 明治19
  俳人団体「水音盟社」結成



1889 明治22 
 町村制施行 石原村、熊谷宿と合併、熊谷町となる

明治35年熊谷町 中山道の商店街の地図

中村写真館の歴史 (熊谷市)

 中村写真館の中村家は、初代中村庄五郎が熊谷宿下町(現在の本町2丁目)で江戸時代に永きに隆盛を極めた煙草問屋「銭屋」中村家から、享保年中頃(1716~1735)に同じ「銭屋の屋号で分家した時まで遡ることが出来る。2代目丈助が、結婚養嗣子となり分家の「銭屋」を引き継ぐ。後に熊谷宿下町から数十メートル西の位置に転居し、屋号を「銭屋」から「中や」に変更し旅籠屋を創業した。
<煙草問屋銭屋>中村本家
熊谷宿百石組に、宝永年間(1704~1710) 銭屋中村七郎右衛門
熊谷宿屋敷図に、享保年間(1716~1735) 銭屋中村武兵衛
熊谷宿百石組に、宝暦十年(1760年) 銭屋中村利右衛門
熊谷宿百石組に、寛政年間(1789~1801) 銭屋中村儀右衛門
熊谷宿百石組に、文政年間(1817~1829) 銭屋中村庄二郎
熊谷宿百石組に、嘉永元年(1848年) 銭屋中村庄五郎


「銭屋」は諸国道中商人鑑、文政10年(1827年)に名が残る名店であった。

熊谷宿 寛政12年(1800)には家数937軒、人口3276人(男1735人、女1541人)であった。そのときの主な商店数は、多葉粉(たばこ)屋20、旅篭屋19、穀屋18、太物屋16、小間物屋16、質屋15、油屋13、豆腐屋13、茶屋13、荒物屋12、酒屋11、醤油屋11、肴(さかな)屋10、八百屋9、建具屋9、うどん屋8、湯屋7、金物屋7、造酒屋7、餅屋6、紺屋6、材木屋5、薬種屋4、古着屋4、紙屋3、瀬戸物屋2、合羽屋2、であった。この時代ではたばこ屋が一番多い。

 3代目中村庄五郎は、旅籠屋の「中や」を引き継ぎ、熊谷市史には宝暦10年(1760年)の中山道図と大里郡熊谷宿百石組に、中村庄五郎の名が記されている。因みに、宝暦10年、本町南屋敷持主中村庄五郎「中や」、同所中村利右衛門「銭屋」の記述もある。
 4代目嘉七(旅籠千代村出)は庄五郎の長女ふよと結婚養嗣子となり安永年中(1772~1781)に「中や」を引き継いだ。
 5代目新七は嘉七の長女よのと結婚養嗣子となり、寛政年間(1789~1800)に旅籠屋の「中や」を引き継ぎ、後に宿米の仕入と共に穀屋を興し「中屋」(旅籠屋・穀屋)を開業した。因みによのの妹である養女千代(旅籠千代村出)は円照寺分家へ嫁ぐ。5代目新七の長男利兵衛は文化6年(1809年)「中屋」を引き継ぐことなく21歳で亡くなった。

<文化2年(1805年)吉田家金銀出入帳 下奈良名主吉田市右衛門>
吉田家と穀物取引
丑十二月十七日
 入一 金弐拾両 吉田六左衛門
 宿米六拾俵 石一斗五升かへ
 居払 中屋新七方
と記されている。

<旅籠千代村>
文化5年(1808年)5月26日、小林一茶は熊谷宿に立ち寄った。
是より中山道熊谷堤に上りて熊谷駅千代村といふ宿にて迹の人待たんとしたりけるに、日いまだ未の歩み少し過たるなれば深谷迄といそぐ、      「草津道の記」より抜粋

 6代目2世新七(葛和田村吉川家出)は、5代目新七の長女るつの結婚養嗣子となり、文政年間(1818~1829)に「中屋」(旅籠屋・穀屋)を引き継いだ。その後質屋を興し、「中屋」(旅籠屋・穀屋・質屋)を開業した。新七は妻沼歓喜院・聖天宮を信仰し、それ以後の世代は数多くの奉納をして来た。
 6代目2世新七の長男権太郎は、女姉妹のほか男一人で、江戸千住宿の旅籠「高橋屋」豊ニ郎で奉公中に嘉永4年(1851年)に23歳で亡くなる。二女ふゆは7代目平七の弟で質屋「山仁屋」小澤平左エ門の元に嫁ぎ明治2年(1869)に亡くなる。ふゆは熊谷高等女学校教師で後にさくら会会長をつとめた小澤キクの祖祖母になる。四女つ子は、安政3年(1856年)行田忍町の旧家大澤専蔵(旧名豊次郎)の穀屋・質屋へ嫁ぐ。後に大澤家は明治に入り足袋製造を興す。つ子は1858年に長女ひさをもうけ、今一人の女児を残し、姉ふゆと同じ明治2年に産の上で亡くなった。三女よふは騎西の旧家伊藤家に嫁ぎ、奇しくも姉二人と同じ明治2年に亡くなった。

<天保4年11月(1833年)大里郡熊谷町穀屋仲間口演> 
長野武一家文書より抜粋
          口 演
先達而御対談之米一両日之内に御当番様より差出可申様
被仰渡候間此段御達申候、以上
    同拾四俵 中屋新七
右之通相違無座候、以上

<6代目2世新七の事 諸々日記帳> 大和屋より抜粋
ー「天保の飢饉」は天保四年から同七年に起こった全国的な飢饉ー
 忍藩の御留役森平八様」が御出役になり、穀屋一同を御召出しになりました。森平八様から仰せつけられるには、このたび米穀が追々高値になり、難儀なる者たちが大勢いるので、こちらから何程とは言わないが、穀屋一同で入札いたし、私は何程助成すると申し上げるようにとのことでした。銘々入札を御覧に入れたところ、中買一同にて三百俵を入札した。  大麦二十俵 中や新七 「天保七年八月」十日覚 1836年

 7代目中村平七は、本宿(現在の筑波町)質屋「山仁屋」の小澤辨二郎の長男であり、6代目新七の長女和志と結婚養嗣子となった。先代の6代目新七の見識で早々と家督を次世代に譲り、7代目平七は25歳にして天保12年(1841年)に「中屋」(旅籠屋・穀屋・質屋)を引継ぐ。その後、旅籠屋・穀屋を廃業し新たに荒物商を興し、「中屋」(質屋・荒物商・菓子販売)を開業した。幕末には、高橋忠五郎から五棒を仕入れ、五荷棒に中村家を掛けて「中家棒」の名称で売り出した。たいへんよく売れたので、本業として菓子店を起業するために次男の藤吉を菓子店へ奉公させた。藤吉21歳が奉公先から戻った後に販売を始めた軍配煎餅に合わせ、明治10年に菓子舗「中家堂」を創業し、その後(質屋・荒物商)の屋号の「中屋」の名前のみをしばらく残したが、「中家堂」の暖簾に切り替えた。その後風間堂より五嘉寶(五棒)を仕入れ、同時に中家棒も「棒」の字を「寶」の字に変更して中家寶として販売した。ちなみに7代目の妻和志は、中庭に茶室をもうけ煎茶道を教えていた。
 また、1840年代に創業した中屋の支店で料理店「古澤亭」熊谷宿い通(現星川)を、1860年代に「中務楽楼」に変更した。更に明治10年代に本町4丁目中家堂北にて御料理「中家亭」を開業、養女として育てた紋を店主としていた。平七は明治7年に熊谷宿では初の町会と議員組織作りの惣代人となり、明治11年に選挙で当選し、熊谷町会議員を務めた。

 因みに『高城神社幣殿篇額』に書家三井親和の篆書篇額1780年制作を、奉額は天保13年2月(1842年)再建し、翌年の天保14年9月に再興、当所重竹吉右衛門願主に、五ト八 大里屋佐四郎、二ト八 兼松十左衛門 一ト五 中屋平七、塗師能州惣介と記す。また、熊谷市史には嘉永元年(1848年)大里郡熊谷宿百石組に、中村平七「中屋」・中村庄五郎「銭屋」の名が記されている。明治9年1月 本町3丁目、4丁目、泉町地租改正役員を担当した。
 明治18年5月5日に69歳で永眠。菩提寺は元市内星川の久山寺、現在は大原墓地に慰霊は納められている。「得進院三誉法忍精穏居士 合掌」

菓子舗中家堂 明治16年6月10日中務楽楼(古澤亭) 泉町 明治21年7月撮影明治の20年代頃の中家堂の菓子折りの掛上に用いた銅版画の左端。左上の旗に御料理中家亭の名がみえる。

明治の皮半纏 (出入りの鳶の田中長次郎が年賀の挨拶で着用)台帳

台帳 

<7代目平七の事 幽嶂閑話より抜粋> 昭和10年発行 
 慶応4年3月に官軍が進軍中熊谷に宿陣したおりの事。商家中村平七方へ薩摩兵が宿営したがこれは言葉がわからないのでもてあましたらしい奥で、手がなるから女中が行って見ると「なぜ」を持ってきてくれと云う、多分鍋の事だらと思ってそれを持って行くと首を振ってイヤ違う「なぜ」だと云う、女中は困り切ってベソをかいて居ると、これだゝと云い乍ら、畳へこぼした水を拭くまねをして居るので始めて雑巾の事と分り、はては主客共に大笑ひをしたと云ふ。

中家堂本舗 明治38年中家堂本舗 明治44年10月11日中家堂稲荷社 行田の親戚 大澤専蔵(旧名喜蔵)と久保田豊ニ郎君  明治39年2月4日

<『熊谷百物語』 酒井 天外著 > 明治45年発行
看 板
 町の美観に掲げらる看板に就いて物語らんに▼先ず中家堂の寳丹翁が秀麗の出来だと記述されている。(これは「中家堂本舗」の2階の屋根の右端に掲げられた、寳丹、臘梅の薬の看板である)

8代目 2世平七


1894 明治27 
 熊谷祇園祭に、歌舞伎座の花形 沢村宗十郎を招く




1896 明治29 
 熊谷測候所設置する
 埼玉県第二尋常中学校開校




1902 明治35 
 県立熊谷農業学校 開校




1904 明治37 
 日露戦争






















9代目 成一郎








 平七の長男8代目米吉は嘉永5年11月17日に生まれ、その後下野国足利郡足利町の薬種商「小松屋」(足利市に現存する)の小沼仁三郎(武蔵国幡羅郡江袋村の長嶋作左エ門 二男)にて奉公の後、明治18年(1885年)5月18日に相続し、同28日に2世平七を34歳で襲名した。質屋・荒物商「中家堂」と「中務楽楼」、それと「中家亭」を継ぎ、次男藤吉29歳が菓子舗「中家堂」を引き継いだ。明治20年頃には、質屋・荒物商「中家堂」を「諸家製売薬度量衡硝子版販売所」と改め、売薬(壮眼水寳丹實母散救命丸.・臘梅・鳳龍丹・錦袋園岸田精錡水せんきの妙薬)、度器、衡器、量器、額縁、硝子板、寒暖計、鏡、算盤、西洋酒、大黒天印甲斐産葡萄酒、コールタールの販売他、玩具雛人形問屋を行っていた。諸家製売薬度量衡硝子版販売所の「中家堂」を、[菓子舗中家堂」と違いを表すため「中家堂東舗」としていたが、明治36年に「中家堂本舗」と変更した。
 2世平七は発想力豊かな人物であり、37歳の明治21年2月10日に役所に隠居届けを提出、3才の長男成一郎に家督をゆずる。平七は色々な役職を名義上長男成一郎に譲ったが、うちわ祭本三四世話人、熊谷の中学設立運動委員等々、多方面で熊谷のために貢献していた。また平七は俳人であり明治21年に「水音盟社」結成に中村夕雨の号で名を連ねた。そして盆栽を好み写真好きであり、当時では珍しいカメラをかかえ明治38年に大連に渡っている。ちなみに妻の志げは、8代目平七の従兄妹で、7代目平七の弟の次男小澤平左エ門と7代目平七の妻和志の妹の次女のふゆとの間の次女であった。志げは先代に続き煎茶道を教えていた。 

<第弐本町区山車(本三四)
明治24年、東京神田の紺屋さんが個人で所有していたものを、本町4丁目長老で「中屋號」の主人松本清七を中心とした数名が世話人となり購入しました。伝えられる買取金額は五百円。米一石の価格が七円の時代の話でありその快挙は永く讃えられ続けています。この戸隠人形の山車は、天保年間の作とされ、人形は天手力男命。作者は名工の誉れ高い深川佐賀町の二代目仲秀英であります。この山車は長く江戸天下祭に参加していました。平七は世話人の一人で、弟で世話人の菓子舗中家堂主人中村藤吉が神田の紺屋より譲受、中山道を牛に曳かせ山車を熊谷まで持ち帰る大役を果たした。
<第弐本町区(本三四)神酒枠
平七は明治24年の本三四神酒枠の修繕時の発起人の一人であり、年齢は40歳であった。

熊谷市指定有形民俗文化財
指定年月日 昭和43年11月3日
 安政5年(1858)、棟梁(とうりょう)小林某製作。唐(から)破風(はふ)、火(か)灯(とう)窓(まど)などがある。八棟造。錫製(すずせい)壺(つぼ)あり。神酒枠は、その大山参りに際して、御神酒を持ち運ぶために用いられた信仰用具。二基一対で、社殿風の凝った作りが多いことが特徴です。内部に神酒とっくりなどを納め、てんびん棒の両端に通して運べるよう、上部に四角い穴が開いています。大山は、神奈川県丹沢山地にある標高千二百五十二メートルの山で、古くから信仰の対象とされてきました。雨ごいのほか、商売繁盛などでも信仰を集め、特に江戸時代には関東一円に講が組織され、多くの参詣者が大山に向かいました。熊谷うちわ祭関係者による大山阿夫利神社参拝は、毎年7月28日に参詣しております。

中村写真館 大正3年4月開業
<初代中村写真館主成一郎>
 2世平七の長男9代目成一郎は明治18年11月2日に生まれ、明治21年2月10日に父の見解でわずか3才で家督を相続し、若輩ながら10歳頃から熊谷の多様な役職に名を連ね、先祖に倣い多方面で熊谷のために貢献していた。また、明治の南画界を代表する古河生まれの女流画家奥原晴湖が明治24年3月に上川上の名主稲村家の敷地に木造土蔵を新築した。職人は、石原の棟梁鯨井福松、池上村左官養田勘介、上野村鳶間庭関助、らであった。成一郎は親の意向で明治26年12月8日の8才の時に晴湖所有2階建て土蔵を230円で購入譲受し、中家堂裏庭に移築した。当時土蔵解体し移築に携わった職人は棟梁小柳寅吉、左官深野傳吉、鳶田中長次郎(本三四組頭)、瓦師簗瀬傳右エ門、石工神嶋傳次郎らで、若輩の成一郎の代に父平七が幹事となった。因みに、移築した蔵に本三四お祭り用具の一部を保管したとつたえられる。

 旧制熊谷中学を卒業した成一郎は明治41年には「中家堂本舗」を引継ぎ、父8代目平七の影響による写真の趣味がこうじて、大正3年4月に中家堂の支店であった料理店「中務楽楼」の跡地で富士見町(現星川)に移り「中村写真館」を開業した。当時東京の東京写真研究会に入会して展覧会や研展なども出品し、熊谷の中村と名をあげていた。成一郎は父平七の俳句の号で中村夕雨(セキウ)を写真の号で使用していた。また、当時の門下生は埼玉、群馬を中心に写真業界のリーダーとして活躍している。その後、大正10年に鎌倉町入口にさくら写真館設立、大正12年に鴻巣の勝願寺参道に中村写真館出張店を設立し、昭和5年に行田に「中村写真館」を設立した。ちなみに成一郎の妻俊は林有章の4女に当り林頼三郎(司法大臣)の義妹となる。  
 昭和19年11月27日に60歳で永眠。菩提寺は元市内星川の久山寺、現在は大原墓地に慰霊は納められている。「映光院眞誉成道浄雲居士 合掌」









大正時代の中村写真館家族とスタッフ大正末の元旦での記念写真

<明治四十三年(一九一〇)七月二六日東京版『朝日新聞』>
「熊谷の神輿騒ぎ」
 埼玉縣熊谷町八坂神社大祭は既記の如くなるが廿三日の最後の日には例年の如く各町より若者出でヽ神輿を舁ぎ早各町を廻り終り愈還御といふ午後四時頃神輿は同町本町三丁目中家堂中村藤吉及同本家中村成一郎方前に至るや人數は十倍し來り頗る手荒く成るよと見えしが忽ち前記成一郎方店先に舁ぎ込みたれど押さるヽ方は一散に逃げ退きし爲め神輿はドウと地響きして転倒し同家の大硝子戸を打破れり此時逃げ遅れた同町榮町穀商根來幸之助方庵人米搗野中直太朗は其刹那溝へ足を踏込み舁棒に壓せられし爲め右脛をしたたか打撲し骨を粉砕して身動きならぬ重症を負へり本町一丁目鐵物商鹽田藤兵衛方長男某も祭事掛として附添居て左足甲に負傷し一二の輕傷者ありて大騒ぎなり

 うちわ祭本三四世話人であった中村平七が明治41年8月15日に57歳で亡くなり、明治42年は服で、明治43年のお祭りでは世話人を下りたので寄付金が大幅に減額しました。その事から明治43年7月23日に御輿が投げ込まれ大硝子戸を打破られる仕打ちがあったようだ。中家堂本舗を明治41年に引き継いだ本家中村成一郎が25歳の時であった。
 明治44年の写真では、中家堂本舗の東半分を松原の屋号の店舗に貸し出しているので、大硝子戸が打破れたのは店舗の東側半分の様である。



1910 明治43 
 熊谷男子尋常高等小学校設立
 熊谷女子尋常高等小学校設立



1911 明治44 
 県立熊谷高等女学校開校



1914 大正3  
 第一次世界大戦



1920 大正9
 熊谷商業学校開校 



1915 大正4  
 熊谷寺本堂が再建される


1923 大正12 
 関東大震災


1925 大正14
  熊谷大火


1927 昭和2  
 桜堤、内務省より名勝地として指定
 金融恐慌


1931 昭和6  
 公会堂落成



1932 昭和7  
 熊谷庁舎落成



1933 昭和8  
 市制施行







10代目 正男

1935 昭和10 
 熊谷陸軍飛行学校開校



1936 昭和11 
 林頼三郎、司法大臣就任祝賀会を公会堂で挙行



1938 昭和13 
 天皇、熊谷飛行学校に御来校



1941 昭和16 
 太平洋戦争




1945 昭和20 
 熊谷市空襲を受ける
 米軍、熊谷飛行学校に進駐




1946 昭和21 
 天皇陛下、熊谷をご視察される

<明治42年11月11日の国民新聞埼玉版>
 県下最初の埼玉県写真品評会として、次の記事が載っている。「さる9日熊谷町写真師真雅堂中沢麗泉、中村成一郎の諸氏発起人となり土地の好事家より有志をつのり、真雅堂内に斬新意匠の写真類を募集し品評会を開きたり(中略)写真会の品評会は本県にては之を嚆矢となす由」とあり30点が掲示された。
 写真品評会の出品者は、明治38、9年頃の「持ち寄り会」と称す例会の人たちと云われている。成一郎は地元アマチュア写真家の草分けで、「埼玉写友会」、「白陽写真会」と深く関わり影響を与えた。写真の繁忙期には白陽会メンバー佐藤虹二、長野秋喜と大石敏朗氏に、撮影から助手、さらに卒業アルバムのり付け等助勢して頂いていた。また昭和6,7年頃からは16ミリの映画の世界に趣味が転じ、熊谷のイベントの記録から白陽会メンバーやご近所の人たちを集め、短編映画製作に打ち込んでいた。
<持ち寄り会メンバー>
 中沢麗泉、中村成一郎(夕雨)、石坂都栄、加藤謙二(長井そば屋)、元の新井市長、町議の西村徳太郎、今井旅館主人、大谷、山下床屋、長谷川など(熊谷の写真より)

第2回写真研究会
第2回写真研究会で、明治43年1月20日~23日に中家堂本舗にて開催された。1月23日「閃光写真撮影」の講師前川鎌三氏を囲んでの写真。

第3回写真研究会
第3回写真研究会で、明治43年5月頃桜雲閣で開催された。新作印画100余点と小西本店参考印画 30余点を陳列する。審査講話は久野轍輔氏。1等中村夕雨、2等石坂都栄、以下13名受賞・・・・・・とある。

 9代目成一郎の弟尚次は明治20年9月6日に生まれ、8歳から20歳まで中家堂の斜め前にあった親戚の料理店「やまに屋」の小澤仁三郎(8代目二世平七妻志げの兄)の養子に入り料理の技術を習得した。仁三郎は剣道に達し報恩寺境内に道場を建て山仁道場と呼ばれた(明治二十一年皇国武術英名録に念流熊谷宿小沢仁三郎とある)。尚次は明治41年に同級生の萩原らくと結婚、23歳の明治43年12月19日に東京神田表猿楽町において西洋料理「中務楽」を創業した。その後、大正5年に妻らくの死亡後に熊谷へ戻り、中村家から分家をし、埼玉熊谷工業試験場に勤務した。その後、長い時を経てから「中家亭」の跡地に「中村とんかつ」を開業した。成一郎と尚次の姉として育てた養女の長女やす(本宿の内田家出)は、親戚で東京本郷の倉橋家に明治29年に嫁ぐ。ちなみに倉橋家は江戸時代末に7代目平七弟、三男小澤平三郎が結婚養嗣子となった東京神田の倉橋家の分家になる。(後に小澤平三郎が倉橋市郎兵衛を襲名)。また昭和4年には、親戚で東京赤坂の倉橋久敬の三女の榮子と、栃木出身で当館の門下生の斉藤勝三郎が結婚の後に成一郎のもとへ養子縁組し、後に行田に分家をして昭和5年に「中村写真館」を設立した。  

昭和初期、江崎写真館スタッフ
前列右から二人目が 10代目の鈴木正男
 10代目の正男は明治42年4月8日に静岡県三島生まれで、「江崎写真館」の浅草・渋谷店にて13年勤務した後、浅沼商会 菅保男氏の仲人で昭和9年に長女登く子の結婚養嗣子となる。なお、登く子は9代目成一郎の弟尚次と妻らくの長女で、大正5年に養女となる。正男は大正11年4月に 江崎写真館入門(浅草奥山)、大正15年 東京写真師協会附属学院卒業、昭和2年 江崎写真館渋谷分館に入る(渋谷上通り2)、昭和3年 東京写真組合夏期講習修了、昭和9年江崎写真館退職。また当時、「江崎写真館」は全国でも屈指の有名店で、モーニング姿で皇室の撮影をも行ったという逸話がある。10代目正男は「江崎写真館」で多種多様な撮影法や高度な撮影技術を習得した。さらに結婚退職するまでの3年は、夏場の軽井沢で4カ月弱、「江崎写真館出張店の主任として勤務し、軽井沢へ避暑に訪れた外国人を主に撮影し、個々の別荘にタキシード姿で出張撮影していた。結婚後、熊谷にも慣れ評価も得てスタジオが盛況になり始めたころ、日本は太平洋戦争の暗黒の時代に突入した。このころは門生は次々に出兵し、最後には妻登く子と女中の二人でスタジオ撮影を切り盛りしていた。正男は昼は軍需工場の富士光機熊谷工場で働き、夜に店へ戻ってから現像等写真作業を行っていた。
 また、戦時中は使用しない部屋を熊谷陸軍飛行学校の将校、少年飛行兵、と下士官学生の休息場所として3部屋を開放し、女中と親戚の女性達でお世話を行っていた。将校は毎日入れ替わりに休息したが、少年兵と学生は日曜日に親元から直接飛行学校へ送れない品々が送られて来る当館まで来て、果物などの食べ物や手紙を手に取り故郷の親を懐かしみ、元気を取り戻して飛行学校まで帰って行ったとのことであった。戦争末期には、陸軍飛行学校の将校など特別攻撃隊の召集を受けた兵士たちが最後のお別れと、これまでお世話になった挨拶に訪れ、その後一路鹿児島の知覧飛行場へ飛び立って行ったと聞かされた。
 戦後は熊谷空襲の戦災、そして後の農地解放で全財産を失ったが、大変苦境の中、苦労をして集めた材木で小さなスタジオを建て復興した。当初は熊谷陸軍飛行学校の跡地に13年間進駐した米軍陸軍キャンプの兵士が、母国にクリスマスや誕生日に贈る写真で大変盛況となり、軽井沢時代に外国人を撮影した際に身に付けた簡単な英語力が大変役立ったと聞いた。10代目正男は働き盛りのよい時を、戦中戦後の混乱に翻弄された。


 昭和10年代 中村写真館スタッフ

11代目 良造12代目 和典

昭和初期半纏中村写真館の出入り職人紀元二千六百年祝典のスタジオ 昭和15年

 11代目良造は昭和9年6月30日に茨城県大子町で生まれ、みずほ写真館にて7年修業の後、昭和35年に正男の長女友子と結婚養嗣子となる。そして、12代目和典は昭和36年8月30日大里村生まれ、昭和54年に養嗣子となり現在に至っている。

中村家商標

中村家商標

江戸時代 角中マーク明治から昭和20年まで 角中マーク昭和62年より





中村写真館の沿革

中村写真館の沿革

大正3年

中村写真館を富士見町に設立

スランドのスタジオ

大正14年5月13日……熊谷町大火にてスタジオ消失

大正末の元旦の記念写真大正時代の自然光スタジオ


大正10年
熊谷寺前にさくら写真館設立
八坂神社参道脇のさくら写真館

大正12年
鴻巣出張所設立
鴻巣出張所

昭和元年
新スタジオ建設     昭和初期のスタジオ
昭和20年 8/15
熊谷空襲にてスタジオ消失
昭和21年
新スタジオ建設     空襲後のスタジオ
昭和35年
たばこ店開業
昭和50年5/12
新スタジオ完成